1994年8月29日(月) パリ:晴れ

夜になった。

預けていた荷物を受け取り、パリ北駅でアムステルダム行きの夜行列車を待つ。

広い駅舎にはいくつもの列車が出入りしている。食べ物や新聞の売店、カフェなど様々な店がある。乗客に混じって駅員やポーターが行き交う。

順番にコインシャワーを浴びに行くことにして、まず原田が先に行く。僕は二人分のカバンを見張りながらベンチに腰掛けて、今日会った事をノートに書いたりオランダの地図を見たりしていた。

すると、不意に右手うしろから声をかけられた。中東系の背の高い男が、時刻表を手に僕に質問をしてくる。「*****!?」ペルシャ語らしい彼の言葉はさっぱり分からない。
僕が英語で何とか会話しようとするが、彼はさらに時刻表を僕の顔の前につきだし、同じ言葉で質問を繰り返す。
僕たちは二人で顔を寄せ合うようにして時刻表の上で出口のない問答を続ける。

ふと、左側に置いた肩掛けカバンが動いたような気がした。
バッと振り向くと、同じ国出身らしい別の男が僕のカバンのファスナーを開けて中を物色しているではないか!「オイ、何やってんだよ!!」僕は叫んでカバンをふんだくる。

すると二人は「It's nothing, take it easy.」と言いながらゆっくり後ずさりをする(英語話せるじゃないか)。
足もとに大きいカバンがあって僕はその場を動けなかったが、騒ぎを聞きつけた警官が遠くからやってきた。

それに気づいた二人組は全速力で逃げ出す。駅舎の乗客達は何事かとこっちを振り返る。警官もそれを追って駅舎を走り出た。

「どうしたの?」
「大丈夫だった?」と声をかけてくれる人達。

しばらくして警官が帰ってきた。あの二人組には逃げられたらしい。

「状況を聞かせてくれないか?」と言われて僕は一部始終を話す。どうやら良くある事らしく、警官は簡単なメモと僕の名前・パスポート番号を控えた後、
「パリは大都市で、ああいう輩もいるから気をつけて良い旅を。この事でパリを嫌いにならないで欲しい。」と言って笑った。

カバンの中に貴重品はいっさい入っていなかった。地図やティッシュ、ガムやボールペンだけだ。しかも幸い盗られた物もない。このことは授業料なしの良い教訓になったが、僕は目の覚める思いだった。どうやら美しいパリに少し酔っていたようだ。
ここは遊園地じゃない。パック旅行でもない。誰も僕を守ってはくれないのだ。

ところが、それと同時に「今、旅をしているのだ!」という実感と、これからの一ヶ月への期待がわき上がって来るのを感じた。不思議なものだ。
ルーブル美術館を見た時より、エッフェル塔を望んだ時より、今が一番楽しいとさえ感じてしまったのだ。

原田がシャワーから戻ってきたが、僕は何となく浴びに行く気になれなかった。

やがて僕たちの乗る国際夜行列車がホームに入ってきた。ひとまず、パリを離れる事になる。
次にここに来る時にはどんな思いを抱いているだろう。

歩き疲れと興奮が入り交じってしばらくは寝台に横になって天井を見ていたが、やがて深い眠りに落ちていった。

深夜にベルギーのブリュッセルを通った事も気づかないくらいに。

本文と全く関係ないけど、
ソルボンヌ大学構内にて。

中央で座っているのが筆者。

左の胸像はパスツール。
右は忘れてしまった。


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