1994年 9月7日(水) ヴェネツィア:晴れ

夕べ部屋に入った蚊に悩まされるが、9時半までぐっすりと良く眠る。

こんなにゆったりとした気分は実に久しぶりだ。

部屋を引き払って外へ出ると、日差しは昨日より強かった。

また暑い一日が始まる。僕は昨日買ったサンダルに履き替え、重い荷物は駅に預ける。

今夜の寝台列車で、モナコに向かうのだ。


とりあえずサン・マルコ広場とは逆の、港を見に行くことにした。

昨日とは別の市場を通る。ここは野菜が中心で、特に果物が多い。
イチジク、ブドウ、その他色とりどりの知らない野菜が並んでいる。

壁に描かれた「サン・マルコ広場へ」の矢印の反対へ反対へと歩く。

途中、サンドイッチを買う。教会の前に腰を下ろして階段の上からパン屑を鳥にまきながら朝食。僕の好きなプロシュートが入っていた。

狭い運河をパトロール船が爆走し、水しぶきが上がる。公衆電話でお話し中の女性が驚きの声をあげた。
港は、ただでさえのどかなこの島の中でも、ひと際のどか。停船中の船が揺れている。

市場を抜けて商店街へ。銀色のネクタイを求める。お祝い事用にするつもり。
僕は日本の結婚式で皆しめている白ネクタイが好きではないのだが、ヨーロッパではシルバータイが主流な事を知って嬉しく思ったのだ。
4万リラ(当時3000円)と少し値が張り、決断に迷う。質の良いネクタイとしては破格
に安いのだが、この度の水準からする と一日から二日の生活費に相当する。しかし値札の見間違いで、2万 5千リラである事を知り、上機嫌で購入。

差額で昨日から目に付いていたパンツを買う。

また裏道を歩きまわる。2月に行われるカーニバルの仮面や人形、マリオネットを売る店。少し怖いが、幻想的な雰囲気。

水を求めて彷徨うが、どこもシエスタらしく閉まっている。

突然、姿を現す高い鐘楼。教会の丸屋根。

日差しは眩しく、まるで夢を見ているかのような一日。

バールで凍りかけたソーダを飲み、船の上に重ねられた板の上に座って目についた風景をスケッチ。暑い午後の日差し。
途中、船の主現る。
その板はこれから持っていってしまうから、隣の船で描くように言われる。

僕は飛び移り、スケッチを続ける。少しアングルが変わったが、想像を交えながら。
揺れる船。聞こえるのは揺らめく水の音だけ。
一時間はそうしていただろうか。ようやく水を買う。冷えていて美味い。ビールを飲みたいが、そうもいかない。

やがて、日はゆっくりと傾き、腹が減ってきた。

そう言えば、朝食に教会の前でパンを食べただけだった。

昨日の駅前のピザ屋は最低だったので、裏道を探す。大きな広場沿いに良さそうな店があった。アンチョビとチリのピザを注文。期待通 り美味かった。
しかし、財布を開けるとリラが無い。どうしても1000円分ほど足りない。
仕方なく僕は原田を置いて、ドルを両替すべく街の中心部 へ。
楽しく歩いている時はあんなに狭く感じたこの島も、こんな時は 迷路のようだ。
アカデミア橋で引き返し、逆方向へ。サンタ・ルチア駅にほど近い所で、やっと両替所を見つけた。
リラを握りしめて、息せき切ってレストランへ。汗だく。
ビールの酔いも吹き飛んだ。
主人はニヤリと笑って”Grazie”と言った。

駅に向かう夕暮れの道で、野外映画館を見た。
フィルム柄の布に囲まれた会場と、大スクリーン。まるで僕の大好きな映画、「ニューシネマパラダイス」の様だった。教会前広場の夏の イベントなのだろう。

愛するヴェネツィアとも、これでお別れ。

僕は何と言ってもやはり旅人なんだ。
明日の朝目が覚めたら、そこ はモナコだ。

夜行列車に乗る。
いつかこの街では、長い時間を過ごしてみたい。

     


上 : 描いたスケッチ。
日記の一ページに思いつきで描いたので、
よく見ると罫線が入っている。


下 : 同じ場所で少し後ろから撮影した写真。
絵の中にある橋の下の船は、
    スケッチの途中でどこかに行ってしまったようだ。



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