1997年 2月5日(水)ヴェネツィア:霧/曇り
夜中に目が覚める。不思議にいろいろな事を思い出す。
大学の事、4年間働いた図書館の事。バンドの事、キャンプとボランティアの事。
春からの新しい暮らしの事。 イタリアに来て2週間が経った。
ヴェローナで体調を崩したが、おおむね旅はうまくいっていると言える。
でもどうしても僕はある種の孤独感から逃れる事が出来ない。 最初にも書いたように、感動を分かち合える相手がいないというのは、以外に堪えるものなのだ。
夜中に目が覚めたのは多分、念願のヴェネツィア暮らしが叶ったせいで興奮しているからだと思う。
だけど今感じているのは、他でもない孤独感だ。
列車の座席で、トラットリアのテーブルで、そして今ホテルのベッドの上で僕は孤独を感じる。
長い一人暮らしのおかげで、一人で食事をしたり寝たりというのは苦ではない。
しかし、何か素晴らしいものや目新しいものを見た時・感じた時に、それを全て独りで受け止めなければならない。そういった状況の僕には、このイタリアという国は魅力的すぎるのだ。
いつしか再び眠りについて朝が訪れ、目が覚めた。
よし、歩き出そう。
朝食は大きめのパン一つにコーヒーか紅茶。ヴェローナとはずいぶん違う。
犬を連れて旅行している婦人グループの独りが、自分の犬を「ヴェスパ、駄目でしょ!」と叱る。
僕はピアジオのバイクを思い出して笑う。
歩き出す。霧雨が降っている。
サン・マルコ広場にはまだ午前中だというのに王と女王の扮装をした夫婦が歩く。
ヴェネツィアの歴史を物語るコッレール博物館へ。
幾度にも渡る地方国間の対立。侵攻と抵抗。それを物語る武器の数々。
祭りを描いた絵画では、組み体操のように幾段にも重なり合って海(ラグーナ)の上に立つ人々。
回廊からは、平和なカルネヴァーレのサン・マルコ広場が見えた。
いずれは海に沈む運命のヴェネツィア。
もし僕がここの生まれだったら、世界はどのように見えていたのだろうか。
世界一美しい街。そして世界一不安定でやがて水没する街。
ここに産まれ育ったら、日本の僕の街はどのように見えていただろう?
海沿いに歩いて海洋史博物館へ。巨大な錨、船の模型。計器。海軍の制服。
日本の模型制作者から寄贈された屋形船の模型もあった。
中でも入口に飾られた二人乗りの魚雷のような物が目をひいた。
前方の人が操縦するのだろうが、後方の人が何をするのかは分からない。
明らかに乗り物なのだが、水に浮くのか潜水するのかも分からない。
でも、とにかく海に関わるものは胸躍る。長い航海に出てみたくもなってくる。
昼食を求める。適当に入った店が大ハズレ。
イカスミのパスタは日本のレトルトパックよりも不味く、遅れに遅れて出てきたポテトは池袋のマクドナルドのような味がして、伏せてあったグラスにはテーブルクロスの洗剤か芳香剤の匂いがたっぷり染み込んでいた。
僕は息を止めてガス入りミネラルウォーターを飲んだ。
税・サービス料・席題もろもろで1万リラ近く取られて2万5千リラもした。大いに不服。
鼻をつまんで食べていたようなものなので、空腹は治まっていない。
そこで僕は、昨日と同じホテルの隣のピッツェリアでチーズのピザを食べた。
付け合わせはほうれん草。飲み物は1/4のつもりで頼んだ1/2の白ワイン。
どれも本当に美味しい。ほうれん草はアオスタのよりバターの味が少ないものの、「緑の野菜」の風味に溢れていたし、チーズのピッツァは言うに及ばず。
ワインがまた美味い(さっきの店より安いのに)。
大満足。
しかしワインが回ったのと昨日の夜中に目覚めたのとで眠くなってきた。
同じカルネヴァーレのヴェネツィアでも、こんなに味とやる気に差があるんだなあと妙に感心しつつシエスタ。よく眠る。
2時間ほどして目覚める。耳栓を取ると、滞在客が戻ってきたらしくて廊下が騒がしい。
「ヴェスパ!」と例の犬を呼ぶ老婦人の声がする。
時刻は夕方6時。高い鐘塔がある近くの教会の鐘が鳴る。
電話が鳴り、フロントの女性はフランス語を何とか使って予約を受ける。
ところで、「地球の歩き方」によれば、カルネヴァーレのヴェネツィアに行くならかなり早い時期の予約が必要であり、その場合シングルで2万円前後を考えなければならないとあった。
こんな飛び込みでやってきて4千円(5万リラ)の部屋に4泊しようだなんて、きっと無鉄砲だったのだろう。
実際、何度も予約を断っているのを聞いた。
この部屋に「Privato」と書いてあるのは、多分繁忙期用の隠し部屋だからなんじゃないかと思う。
その証拠に、イタリアで義務づけられている料金表が貼っていない。
僕がたまたま一人旅だったから泊まれたのだろうが、ツインの部屋を探したら本当に一人あたり2万円かかっていたかも知れない。ツイていた。
同誌によると、アオスタの祭りは「サン・トルソ祭り」でこの知に古くから伝わる木製手工芸品の数々が紹介される伝統的なお祭り。「ウッド・フェア」とも呼ばれ、手工芸品コンクールや展示即売も行われるとあった。一応聖人の名を冠しているものの、やっぱり木製品が主だったのだ。
アオスタなんて、こっちに来るまでは聞いた事もない地名だったから、あの賑やかで牧歌的な祭りが見られたのも本当にラッキーだった。
旅は、そんな多くのラッキーといくつかのアンラッキー(例えばクールマユールのシャワーや今日の昼食)で構成されている。きっと、どちらが欠けても味気ないものになってしまうのだろう。
夕食をとりに外出。と言ってもほんの10m離れたいつもの店"Trattoria
casa mia"に行くだけだ。
スゴイ太い声の宿の親父が
「1時には帰って来いよ」という警告を与えるが、
「隣の店に行くだけですよ」と言うと笑顔になり、
「あそこは美味い。ノープロブレムだ」と言った。愛されている店なのだ。
今日はゴルゴンゾラ(もう普通のチーズでは飽き足らないほど美味い)とスペック(例の天井から下がっている塩漬け肉)のピッツァに1/4ワイン。これで1万5千リラ(千円ちょっと)。
付け合わせもメインも頼まなくてもイヤな顔一つしない。
それどころかウェイトレスのシニョーラはもう僕の顔を憶えていてくれた。
地元客で一杯で、すごく忙しそうではあったけれど。
僕は昨日、この店を「地球の歩き方」に紹介して掲載号をもらおうと思っていたのだけれど、やめた。
そんなもったいない事はできない。
宿の親父に負けないくらい太い声の、ヒゲが格好いい親父(『天空の城ラピュタ』の親方に似ている)。
他の店のようなリボンや仮面などのカルネヴァーレの飾り付けは一切無く、古い鍋やパスタを打つ棒、リキュールが並べられているだけである。
結局もう4回も来ている。
この店が一本奥まっていて良かった。そして、たまたま泊まる事になったホテルがその並びで良かった。
旅は、こんなラッキーで構成されている。
明日も、それから先も、僕の旅がそんな多くのラッキーといくつかのアンラッキーでちりばめられる事を望む。
昼寝をしたのに朝までグッスリ眠る。
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