1994年 9月 6日(火) ヴェネツィア:晴れ
寝台で目覚めると、何と有り難いことに朝食が出た。
クロワッサンと甘い菓子パンと紅茶。低い天井の下、窮屈ながら美味しくいただく。幸先が良い。
やがて列車は長い長い橋を渡る。この橋の向こうがヴェネツィアだ。
初めて訪れたのは2年前の春で、高校2年生の終わりにアルバイト代をはたいて美大志望の友人と二人で来た時だ。
その時以来、この街は僕の世界一好きな場所なのだ。
サンタ・ルチア駅はバックパッカーでいっぱい。両替所も凄い列。懐かしいイタリア語が飛び交う。駅前はいきなり運河で、水上バスが通って行く。
僕の泊まったホテルがあった。長く急で狭い階段も懐かしく、その友達とかつてここで過ごした日々を想う。
毎日島中の路地を歩いては、夜になるとこのホテルの部屋でビールやワインを飲んだ。
あいにく満室だったが、近くの宿を紹介してもらう。ちょっと奥まっているが安くて快適。早速干しそびれた洗濯物を吊るして、シャワーで夜光の汗を流す。
近くのピッツェリアで食事。駅前なので、イタリアにしては珍しい程美味しくなかったが、全く気にしない。
ヴェネツィアに来た。こみ上げる嬉しさ。
ここなら地図は要らない。車にも気をつけなくて良い。ただ気の向くままに歩けば良い。
サン・マルコ広場を目指す。
建物の間の薄暗くて狭い道。はげた漆喰から覗く煉瓦。石造りの渡り廊下。
吊るされた洗濯物。サッカーをする子供達。古びたマリア様のレリーフ。
ふと出た明るい広場には、鉄の蓋をされた井戸。細工の施された水飲み場。
自分で書いた水彩画を売る若い女性。煙草屋、カフェ、大きな教会。降り注ぐやわらかな日差し。
その広場を中心にわかれる、さらに狭い小路。チーズやワイン、肉を売る店。
それが島じゅう続くのだ。
いつしか大きな市場に出た。まだ朝という事もあって、魚が所狭しと並べられている。
イカ、牡蠣、巨大な魚、アンコウの頭、そして真っ赤なトウガラシ、アーティチョーク、丸々とした赤や黄色のパプリカ、キュウリ、リンゴ。
市場には人があふれ、活気に満ち満ちている。キッチンさえあれば一ヶ月でも一年でもここに居たくなる。
前に来た時に友達と好んで毎日食べた、しょっぱい生ハム(プロシュート)を買った店を見つける。
親父さんも変わらない。あの時と違うのは季節だけだ。
リアルト橋に続く土産屋通り。2年前に友達と二人で見とれた、あの綺麗な売り子の女性はもう居なかった。でも、それで良いのかも知れない。
白い石造りのリアルト橋で大運河を渡りって賑やかで狭い路地を抜け、サン・マルコ広場に出る。
人で溢れんばかり。バカンス・シーズンは過ぎたはずな
のに。8月の人ごみが思いやられる。海兵風の若い男達。鳩の数も昔に輪をかけて多い。
広場を無視して船に乗り、リド島へ行くことにした。船着き場も水に浮かんでいる。
年配のシスターが数人、白い衣装で乗船。船はかなり揺れ、酔いそうになった。
リド島はヴィスコンティの映画「ベニスに死す」の舞台でリゾート地。映画はまだ見ていないが、ここで死ねたら良いなあ。島の反対側まで歩くと、長いビーチ。
水色の屋根の小さい更衣室が、何百と続く。日差しは建物の影があるヴェネツィア本島より強く、人々は楽しそうに日光浴。ジョギングする人、卓球する人。
本島と違って車はたまに通るが、ウィーンから来ると本当に静か。雰囲気の良い別荘が立ち並ぶ。島を一周する頃にはすっかり良い汗をかいてしまった。
本島に戻って食事。ビュッフェ式の店。人参とパプリカのサラダ。カブの温野菜、骨付きチキン、炭酸水。どれも美味い。イタリアはこれだから良い。
フェニーチェ座まで行くが、残念ながら公演は9月から。
大運河にかかるもう一つの橋、木製のアカデミア橋を渡り、観光地から少し離れた小さな通りを歩く。橋から橋へ。曲がり角から曲がり角へ。
まさかと思うような裏道。これだからヴェネツィアは良い。哀しくなるほど良い。
小さなカフェで休憩。日蔭は少しだけ涼しい。大きな声で話す女主人と、客の親父さん。
それから夕方まで、あまり観光客の寄りつかない裏道をぶらぶらした。僕にとっては美術館よりも有名リストランテよりも、これこそがヴェネツィアなのだ。
狭い路地のはるか上のほうに、国旗のように翻る洗濯物。大きい犬を連れた小さな女の子。
ノブがなぜか中央に取り付けられたドアまたドア。
日が傾き始めてバールには灯が点り、人々は大声で語らいながら酒を飲み始める。
僕の前を歩いていた婦人が友達とすれ違う。
「Chiao!」「Chiao!」
やがて生活感漂う商店が現れて、駅前の1/3の値段で水を買えた。
いつまでもこのままでいて欲しい。
でも何百年後かには、この島は水に沈む運命なのだ。
昼間後悔したのに、うっかり夕食を高くて不味い駅前でとってしまった。
この島は駅から離れるほど、安くて美味しい店に出会えるのだ。
口直しに買ったビールが久々に美味しい。
熱いシャワーを浴びて眠る。今、僕は念願のヴェネツィアに居るのだ。
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