1994年 9月 15日(木)
タンジェ:晴れ

港で帰りの船のチケットを買って出国手続きをするが、一向に乗船が始まらない。

船にかかったタラップのような廊下で待たされる。
説明はない(あっても多分分からない)。

皆、座り込む。トイレに行きたいが、行っている間に乗船が始まったら大変だ。
皆グッタリしている。つらい。

これはいったい何なんだ?
アルヘシラス発の列車の時刻が気になるらしいバックパッカー達は焦っている。
その後何とかトイレには行けたが、危うくもう一度出国手続きをしなければならない所だった。

僕は夜までにアルヘシラスに帰れればいいが、あの宿も手放しでは信用できないから、遅くなると部屋を引き払われそうで怖い。

不吉な空気が漂っている。
寝っ転がる者まで現れた。
故障だろうか?
しかしエンジン音は規則的に聞こえているし、海も穏やかだ。
訳が分からない。

やがて係員が来て、全員待合室に戻された。
何がどうなっているのがまだ分からない。
結局2時間以上が経っている。スペイン時間18時30分。

イギリス人バックパッカーの一人に尋ねた。
何とスペインのフェリー会社がストライキに入ったという。
今日の便は、当然欠航。明朝を待つしかない。
何てことだ。
ここで一夜を明かす羽目になった。ツイてないと言うより他ない。

まさか、あの怪しいタンジェ市内に戻ってホテルを探したくはない。ストが決着し、便が再開することもあり得ないわけではない。

心配なのは、アルヘシラスに残した荷物だ。
今日帰らなかったら一体どうなるのだろう?
まさか捨てたりはしないだろうが。

時間が過ぎて行く。
さっき街で見つけたYHに部屋を取って、今日中の復帰はとりあえず諦めて体を休めようと発案。
立ち上がってカウンターに行き、券の払い戻しを求めるが、何と待合室を出ることが許されない。
トイレに行くにもパスポートを預けて行けと言う。
これでは監禁だ。冗談じゃない。

憮然としていると、事務所から歓声が上がった。
ストライキが決着したのかと一瞬喜んだが、それ以後動きは無し。

皆、割と気軽に構えている。ストに慣れているのか?

係員が忙し気に歩きまわり、警官もウロウロするが動きらしきものは無し。

中には小さな子供もいるのに、これでいいのか?
長ズボンとマウンテンパーカーを着てきたのが救いと言えば救い。
今朝の寒さを思うと、この待合室での夜明かしはゾッとする。

さっきのバックパッカー達に言わせれば、今日中の復帰は無いそうだ。
みんなパスポートを預けて小さな売店に行き、パンを買ってきて食べている。

この先どうなるかは全く分からない。
まあいい。トラブルも旅の内だし、何事も経験だ。

でも急ぐ事情のある人にはたまらないだろう。
僕はこの先の旅程から、セビーリャを削ることにした。

コルドバからマドリード行きののAVE(特急)を取ってしまったし、セビーリャ経由では遠回りになってしまうからだ。

殆ど手ぶらの僕は、あの荷物が有ればなあ、と思ったが、落ち着いてみればそれも考え物。管理も大変になる。
一日くらい着替えなくてもいい。

ところで、この状況は古い映画「予期せぬ出来事」のようだ。
まさに的を得たタイトルだなあ。
あの映画は悪天候による飛行機の欠航だったし、ホテルの用意もしてくれたのだから、諦めもついただろう。
でもオーソン・ウェルズは税金問題で早く国外に出なければならなかったし、エリザベス・テイラーは駆け落ちの真っ最中という、まさに最悪の事態だった。
僕はまだマシかも知れない。

長期戦を予測して食糧を調達。
水2本とパン10個で1300ペセタ。ディラハム(モロッコの通貨)を持っていないからナメられたのだろうか。
高すぎるが、腹が減ってはどうしようもない。

国境警備員は預けたパスポートの管理がいい加減。
トイレの帰り、「赤いヤツを」と言ったら僕の顔もロクに見ないでヒョイと渡された。
こんなにいい加減なら、いっそ外に出してくれ!

ところでトイレには紙がない。イザとなったらこの日記を破るしかないのか?

苛立ってくる自分を楽しんでみることにする。
「悪天候なら仕方ないが、穏やかな海を見ていると腹が立つ。
 さっきその美しさに感激しただけに尚更だ!」
「さっきフェリーが汽笛を上げたのも、考えてみればやる気もないくせに生意気だ!」

ところで僕の使っている東武東上線のストは、口だけでまずやらない。
平和な日本の馴れ合いストが懐かしい。
しかもこのフェリーは他に取って代わる交通手段が無いのだ。
まさか船をチャーターするわけにも行くまい。

事務員が「お手上げ」ポーズをしていた。
どうやら、長い一日になりそうだ。
時たま、思い出したようにアフリカの民族音楽が流れ、ここがモロッコだということを思い知らされる。
そう、アフリカにいるんだ。困ったものだ。

中年男がおもむろに敷物を取り出しお祈りを始めた。
膝をついて頭を下げ、手をついては立ち上がる。
他には誰もやっていないが。

旅客の半分ほどが出ていく。何が起きたかは不明。
見たところ、タンジェ在住の人が帰れるのだろうか?

日が傾いてきた。ざわめく構内。
夜明かしは、もはや決定的。
しかし今ので結構室内が空いたので、長いすに横になって眠れそう。
僕はもう腹が据わった。ここで眠れて明朝船が動けばそれでいい。

刻一刻と暗くなっていく港。

スト決着は明朝という情報が流れる。
港からはどんどん人が消えていく。

仕方なく僕たちも当初の予定(でもないが)通りYHに向かうことにする。やれやれ、こんなことなら夕方に行っていた。改めて無計画に外出を禁じた、ズサンなフェリー会社に腹が立つ。

外はもう真っ暗。
港で知り合った日本人青年と韓国系スウェーデン女性とチームを組んで少し心強くなり、夜のタンジェもあまり怖くなくなる。

YHには幸いベッドがあった。安堵。
係の人も「災難だね」と笑っていたが、僕のパスポートを見て不思議がる。何と出国スタンプと間違えて入国スタンプが2回押されていたのだ。もう呆れて口もきけない。
明朝の便も怪しい。

でもYHの設備は普通程度に良く、400ペセタ。申し分ない。さっきまであんなにバックパッカーがいたのに、良く一杯にならなかったものだ。不幸中の幸いとは、まさにこういう事を言うのだろう。

とにかく今夜、横になって眠れるだけでも神様に感謝。こう思ったのはYHに置いてあったノートを読んだからだ。そこには日本人の体験談が書いてある。
内容は左の通り。

また、京都外語大学の学生、中澤君は「生きることは戦うこと」との名言を残している。
僕も今日の体験を書き残した。もうここには来ないと思うけど、後々の旅人の役に立てばと思う。
世界は広い。
僕としてはスケールのでかかった今回の旅も、ただのお庭の散歩だ。
パックツアーと何も変わらない。
僕は自分一人で何でも出来るし、どこにでも行けると信じ込んでいたが、とんでもない。
ナイフを持った男に本気で襲いかかって来られたら逃げることすら出来ないかも知れない。

僕は無力で、自信過剰だった。

アフリカだろうがインドだろうが平気で旅行できるし、現地で友達さえ作れると思っていたが、そんな人間になるには、まだまだ修行が足りない。

まだ19歳、という甘えもあと3日で許されなくなるのだ。
が、最高のバースデイ・プレゼントがもらえた。
今日のこの体験は、宝物になるだろう。

もちろん、まだ解決したわけではないから油断は出来ない。
明日アルヘシラスに帰れる保証は皆無だし、ここで一週間足止めを食ってパリ発の飛行機に間に合わなかったらいつ日本に帰れるかも分からない。

でも僕は今日、実に多くのことを学べたと思う。
一度は憧れて手痛い仕打ちをされたこの国に、いろいろ教えてもらったのは事実だ。

とりあえず無事にこの旅を終えること。
先の話はそれからだ。

明日はもう少し成長した自分でありたいと思う。
今日と同じ自分では意味がない。

これが大口で終わらないように頑張っていこう。
災難は、まだ過ぎ去ったわけではないのだ。

アフリカとは言え、タンジェの夜は寒い。


港近くにて。小船の下に魚が泳ぐ姿が見えた。

この時点では、まだまだ日帰り旅行気分。


すっかり日が暮れてしまった。
空には星が瞬き始める。
中央が筆者のシルエット。

日本人バックパッカーのノート


9月8日、アフリカ着。
マラケシュ行きの夜行が無くタンジェに滞在する羽目に。

自称ガイドを振り払うが捕まり、妙なカフェに連れて行かれる。

ハッシシを無理矢理勧められて2回吸ってしまった。
500ディラハム(7500円)を要求される。

ペセタしかなくて1000ペセタ握らせるが、
相手は真顔でお前を殺すと言う。

あと1000ペセタと残りの小銭を渡すと、
もっとよこせとスゴんだが、警察を呼ぶというと消えた。

後に強烈な下痢が襲う。

カサブランカでは帽子を後ろから掴まれ、
振り返ると少年がナイフを取り出し奇声を発して追いかけてくる。

その後宿に駆け込むが、
以後も列車の遅れ等で踏んだり蹴ったり。

1994年9月14日(昨日の話だ)。





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