1994年 9月 2日(土)
グリニッジ:曇

8時半頃起きてシャワーを浴びる。
これから飛行機に乗って、丸一日以上風呂に入れないのだ。

今日は経度0°のグリニッジ天文台を訪れ、この1ヶ月の旅を締めくくる。

荷作りにひと苦労。
一応はまとまるが、重量の関係で手荷物に本などを集中させたせいでとても重い。
鞄を背負ったら立ち上がるのがやっとで、階段はつらくて膝にくる。
アールズコートの駅まで歩くと汗だく。

チャリング・クロス駅に荷物を預け、羽が生えたような気分でグリニッジへ向かう。

駅前通りを歩くと、すぐにカティー・サーク号が見えた。
ウィスキーのイメージから緑色の帆船を想像していたのだが、実際は濃紺だった。
中国との貿易船とあって、茶箱が積まれていた。
アムステルダム海洋博物館の帆船より大きくて実用的。
機関部はいまだにきれいだったが相当古い船らしく、水には浮かべられずに土台は固定されていた。

広い広いグリニッジ公園を抜けて天文台へ。

大小たくさんの犬が遊んでいる。とても楽しそうだ。
こんな公園がある街なら、犬に生まれるのも悪くはない。

天文台前の門柱には、初めて見る24時間時計があった。

天文台は小さいが、なかなかいかめしい建物だ。
内部は時計や羅針盤の博物館となっている。
ドームの中の天体望遠鏡はかなりの年月を経ているが、この天文台の主役らしい機能美を持っている。

午後1時に建物の上にある赤い球体が支柱沿いに上昇し、スッと落ちた。
昔は遠くからこれを見て、時計を合わせたらしい。

ここは丘の上で、眼下にはテムズ河が流れている。
じっと座っていると、真昼なのに寒い。
木々もすっかり色づいている。冬がもう近づいているようだ。

敷地内には経度0°の線が引かれ、地球を東西に分けている。
赤道と違って人間達がその勢力で決めた線だからどこに引いても良かったわけだけど、この旅の最終目的地としては、何だか記念碑的な趣を感じる。

線をまたいで北の空を仰ぐと、何だか僕は本当に遠いところまで来てしまったんだなあと実感した。
東京は東経139°と地面に刻まれている。
地球の反対側に近い場所にいるわけだ。
いつも東を見ては日本を思っていたけど、本当は足もとの方にあるなんて妙なものだ。
地動説なんて信じがたいはずだ。

何はともあれ、ここが最後の地だ。
全行程が何万kmになるか分からないが、とにかく今日が最後の一日で、ここグリニッジ天文台をもって僕の旅は一つの結末を迎えた。

もうこの旅で、見知らぬ街の見知らぬ通りを歩く事はないだろう。
今夜の飛行機に乗れば東京に帰るばかりだ。
きっと一生訪れないところの方が多いだろう。

特にアルヘシラスからコルドバに向かう途中に列車からつまみ出されて降りた駅や、バレンシアからたった一両のローカル線に乗って行ったオレンジ畑の奧の駅などは、もう二度とは行かないに違いない。
それでも、そんな小さな駅から通りまでも僕はいつまでも覚えていたい。
それでこそ、パックツアーでは分からなかった様々な事を自分の中に大切に止めておけるのだと思う。

駅までの道はなぜか迷ってしまった。
通りかかった同い年くらいの女の子に訊くと、とても親切ににこやかに教えてくれた。
今までたくさんの人に道を訊いたけれども、皆がこうなら世界はもっと平和になるんじゃないだろうか。

ロンドンに戻り、チャリング・クロス駅近くでピザ食べ放題の夕食。
シェーキーズと同じで味は大したこと無かったが、3£で満腹になった。

ヒースロー空港にはちょっと早く着きすぎてしまった。
荷物は重さを量られることもなくチェックイン。
こんな事ならあんなに無理して手荷物に移すことはなかった。
残された手荷物は、10kgはあろうか。でも超過料金を払う覚悟でいたから、本当にラッキーだ。いくら得しただろう?最後になってまで浅ましい事は考えたくないが、何と言っても僕は貧乏旅行者なのだ。

手元には数冊の本と、水・サンダル・枕とタオル・Tシャツにトレーナー・常備薬と洗面道具などなど。

今日でロンドンともヨーロッパともお別れ。
短かったと言いたいが実感としては永遠にも思えるほど長い旅だった。

いつも頭の中には次の街の事があった。そういう意味では忙しく短い旅だったようにも思えるが、何はともあれこれで全てが終わる。

日本に帰ったら昼の仕事と夜の大学が僕を待っているから、またあのクソ忙しい日々が始まる。でも、それもまた良い。
本当の生活とはそういうものだ。
食うために学び、働くのは、とても素晴らしい事じゃないか。
旅人としての生活はいつまでも続けていられるものじゃない。
いつか必ず終わりが来る。

でも僕は夜のモロッコで思ったように、旅立つ前とは違う自分でありたい。同じ忙しい生活を続けるにしても、今までと全く同じ過ごし方をしたくはない。

広がった分の世界を意識しながら、一日一日学び暮らせる事に感謝して生きたい。
そしていつか、またこの日々に戻って来たい。

夜間飛行は初めてで、窓からロンドンの街を見降ろす。
テムズらしき河や公園らしき漆黒の空間。あとはまるで生き物のように無数の光がうごめく。

今すぐにでも眠れそうだ。

(THE END)


門柱の24時間時計。


経度0°の線をまたぐ。



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