その4 フリークライミング始めました。


 毎年仲間とキャンプをする長野県川上村はフリークライミングのメッカで、
谷の向こうの断崖絶壁に豆粒のような人影がしがみつき、少しずつ登っ
ているのが見える。
 僕達は気楽にコーヒーなどを飲みながら、別世界の出来事と思って
「すげえなあ」とただただ感心していた。
 しかし、ついに僕もこの世界の門を叩く日がやってきたのだ。

 2002年4月、以前からお互いやりたいと言っていた仲間4人で、フリー
クライミングに初挑戦した。
 初心者講習を予約したジムは意外にも江戸川橋にあり、外観は町工場
のように見えた(実際そうだったのだろう)。

 入り口で「万一の事故があっても賠償請求しません」と(この時点では
気軽に)一筆書き入れ、入会申し込みをして中へ。
 3〜4階分ブチ抜きの壁には無数のブロックがあり、天井からロ−プが
ぶら下がっている。床にはマットも何も無い。それとは別に3m程の高さ
の壁があって、高飛びの時に使うような厚いマットが敷き詰められている。

 きっと今日は、低い方だけを使うのだろうと思っていた。

 まずはシューズとハーネス(安全ベルト)をレンタル。27cmを借りたが
どう考えても小さい。受付のお兄さんは「シューズは、痛いくらいが丁度
いいんです」と言うので、信じる事にした。
 ハーネスを装着すると、さっきのお兄さんがやって来て真ん中の輪っか
を持って突然怪力でグイっと僕を持ち上げた。
 ビックリする僕をよそに、「OKですね。」と笑顔。

 インストラクターの柴田さんは優しい顔つきだが、さすがに凄い腕をして
いる。まずは入念な準備体操を習う。指や腕の日頃は意識もしないよう
な筋を伸ばす。
 まずはマットのある低い壁の中の、傾斜のゆるい(直角に満たない80
度)壁を登り、てっぺんの石を両手で触ってみる練習。
 僕は第一歩でなるべく高い石を掴もうとしたが、それでは練習にならな
いらしい。重心を真下にかけ、次の一歩を考えながら登る訓練だ。石に
はザラザラの物もあればツルツルの物もある。
 腰に巻いた滑り止めの粉が入ったチョークバックの存在を思い出す余裕
は、まだ無い。
 つま先が痛くて同じ石に長時間立っていられない事を知るが、4人とも
クリア。
 続いて90度の壁。さっきと違って壁に体を預ける事(反則)が出来ない
ので、両腕両足だけが頼りになる。石には様々な形があり、必ずしも頂点
が乗りやすいとは限らないし、小さければ自分からは見えない事もある。
だからハタ目に見ると簡単そうでも、登っている本人は必死なのだ。

 この時点でヘトヘトなのに、柴田先生から「じゃあ、トップロープ行ってみ
ましょうか。」と耳を疑う発言。
 まさか、今日初挑戦の素人があの壁に登るのか!?でも考えてみれ
ば、まだハーネスを全然使っていない。本当にやるのだ。

 天井から下がったロープの先の、安全環付きカラビナを二つハーネスの
中央リングに装着する。逆端は柴田先生が持ち、自身のハーネスに付い
たATC(ロープ止め)で操作する(ビレイ)と言う。これで僕が落ちても大丈
夫だと言うのだが、イマイチ確信が持てない。
 まずは2m程登ってみてロープを張ってもらい、ロープに体を預けてぶら
下がり、降りてみる。無事に出来てまずは安心。
 「じゃあ次は、上まで登ってみて頂上から降りてみよう。」といきなり無茶
を言い出す柴田先生。しかし、目は本気だ。今朝の段階ではここまでやる
とは全然思っていなかった。
 恐る恐るブロックを選びながら、登る。傾斜のゆるい壁なので難しくは
ないが、ふと下を見ると高さは想像以上。足がすくんだら動けなくなりそ
うだ。 なんとか一番上の石を掴み、ロープを張ってもらう。足を広げて壁
に立ち、少しずつ降りる。アクション映画でよく見るシーンだが、やっぱり
素人はビクビクして絵にならない。久しぶりの地上の感触を味わった時
には、座り込んでしまいたくなった。

 次に参加者同士がお互いビレイする練習。登るのも素人だがその命綱
を預かるのも素人だ。今までの人生で、こんなに緊張した事はかつてあっ
ただろうか。
 まずはお互いの装着を確認。「登ります」と言って覚悟を決め、第一歩を
踏み出す。さっきまでのレジャー気分は一気に吹き飛ぶ。
 頂上で体を預けた瞬間の事は、覚えていない。地上に戻った時の安堵
感は先生にビレイしてもらった時とは比較にならない。おそらく、相手もそう
なのだろう。
 今度は僕がビレイを担当。友人Fさん(女性)はさっきの僕のビクビクを
微塵も感じていないようにヒョイヒョイ登っていくように見える。ロープが
邪魔にならないように少しずつたぐり寄せ、万一落ちた時動かないように
確保する事の繰り返し。真上を見上げつづける事と、人の命を預かる緊
張感でガチガチになる。Fさんを無事地上に降ろした時には、偉業を成し
遂げたような脱力感に襲われた。いくら慣れてもこの感覚は忘れないよ
うにしなければ。

 気づいたらとっくにお昼をまわっていたので、昼食休憩。
 話題は午前中のクライミング一色。腹ペコなのに不思議と多くは食べら
れなかった。感覚を忘れない内に早く登りたい気分だ。

 午後はマットのある低い壁に戻る。
 今度は、手を触れられる石が制限されるのだ(足は自由)。難易度によ
って30段階に分けられている。
 すると一度登った壁なのに、急に難しくなった。体を思い切り傾けなけ
れば届かない石や、引っ掛かりが殆ど無い石、殆どジャンプしなければ
届かない石など一つ一つがクライミングの奥深さを物語る。
 僕達はああでもないこうでもないと言いながら、夢中になって一つ一つ
の課題に挑戦していく。一見不可能と思える課題も、足の位置一つ、体
重移動の仕方一つで解決策が見えてくる。まるでパズルを解くような魅
力だ。

 夢中になっていたらだんだん室内が暗くなってきた。
 いつもアテにならない僕の体内時計は午後3時だったが、ふと時計を
見ると、もう5時近い。
 
 最後にトップロープにもう一回ずつ挑戦し、初回の練習を終わりにした。
 かつてスポーツにこんなに夢中になった事があっただろうか。素晴ら
しい一日だった。
 今日登れなかった壁に、次は登りたい。今日達成できなかった課題を、
次はクリアしたい。そんな思いでいっぱいだ。

 柴田先生にお礼を言ってジムを後にし、早速次回練習日の事などを話
しながら川沿いを歩き、駅に向かう。

 翌朝起きたら体はガタガタだったが、こんな気持ちのいい疲労感も久々
に味わう。次の練習が楽しみだ。
 
 いつか、あのキャンプ場の断崖絶壁を登る日が来るのだろうか。
 

 トップロープに初挑戦の私。
一番「それらしく」見える一枚。


 ハーネス(安全ベルト)です。中央のタテの輪っかに
 ロープを装着します。


 クライミングシューズです。「痛いくらいが丁度いい」
がキャッチフレーズです。


 ボルダリング。
 赤・黄・白のテープは課題番号です。


 夢中になってやっていたら夕方でした。
下で友人Tさんがビレイしてくれています。



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