その8 ホノルルマラソン奮戦記 【 3 】


深い睡眠のないまま2時になった。眠くはないが、シャキっともしていない。緊張のせいなのだろう。 体調は万全とは行かなかった。

前日に用意した服を着こんで、さっそく冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出してゴクゴク飲む。
本番で汗をかき始めるまでに、少しでも多くの水分を摂っておこうと思ったのだ。しかしこれが大間違いだった。

3時にホテルのロビーで集合し、近くから出るバスに乗り込む。スタート地点はアラモアナ・ショッピングセンター。

同じホテルからは牛の着ぐるみを着た日本人の男がビデオカメラを手に「さっきまで飲んでいたんだぜ」と友人にうそぶいていた。

まだ暗いスタート地点にはすでに何千人ものランナーが集まり、ストレッチや談笑をしていた。
電話ボックスのような仮設トイレには長い列ができており、僕たちは薄闇の向こうに見えた公園のトイレを使った。やがてそこも人で溢れる。

街道にはスポーツジムや旅行会社のノボリを持った人々が
「エグザスのお客様頑張って!」とか「阪急旅行社のお客様ファイト!」などと声を上げている。
我らがJTBは何の声援もなかったが、マスコットキャラクターの黒い犬「ルックン」が見送ってくれたので、一緒に写真を撮った。

スタートは予想タイム順に「5時間〜5時間半」などとノボリが立っており、自分が該当する当たりに並ぶ。
計測は足に付けたICチップで行うので、並び順でスタートが遅くなっても不利にはならないらしい。
ギリギリまでスポーツドリンクを飲み、スタートが近づいてきたのでストレッチを始めた。
  

スタートの合図と同時に花火が上がった。
まだ寒い夜明け前の空を色とりどりに染める花火に、歓声と拍手が上がる。
あまりに人が多いので、最初の何kmかはゾロゾロと固まって走る。

アラモアナ・ショッピングセンターの裏に回り、カメハメハ大王の前を通る。
広い緑地には大きなサンタクロースの人形が立ち、小人達が積木を使ってハワイ語で「メリークリスマス」と並べている。

早朝だと言うのに、沿道ではたくさんの人々が手や旗を降って応援してくれ、嬉しい気持ちになる。2〜3kmで早くも最初の給水所があった。
「脱水症状にはくれぐれも注意」としつこくアナウンスされていたので、ゴクゴクと飲む。
今思えば、まだ体が朝から貯めに貯めた水分を使っていないうちから追い討ちのように給水してはいけなかった。
やがて大通りに戻り、最初の公園を横目で見ながら海岸沿いにダイヤモンドヘッドを目指す。

この辺からお腹の雲行きが怪しくなり始め、青ざめながらトイレを探すも全く見当たらない。
しまった!さっきの公園で行っておけば良かった。仲間とはぐれたくない一心で見送ってしまったのだ。
走りに集中しようとしても、ますます暗雲急を告げてきた。 オハナ・ウエストホテルに戻ろうか?いやいや遠すぎる。

仕方なく沿道の超高級ホテルに駆け込む。ラウンジにはグランドピアノがあり、泊り客はいかにも大金持ち。
短パンにゼッケンの僕は明かに浮いていたが、背に腹は代えられない。

するべきことを済まして晴れやかな気持ちで通りに出ると、ゾロゾロ行列はまだまだ続いていた。遠くの空が明るくなり、朝日が昇ろうとしている。
ワイキキビーチから動物園まで走り、前夜祭会場でもある公園を横切る。ここがゴール地点なのだ。
再びここに辿り着く頃、僕はどんな気持ちでいるだろうか。

緩やかな上り坂が、だんだん急勾配になってきた。ダイヤモンドヘッドに上っているのだ。
遠くから見ると格好良いが実際は荒涼とした石だらけの禿山で、富士山に似ている。
昨日バスで下見をした時は坂がこんなにキツイとは思わなかった。

ふと、歓声が湧き上がる。対抗車線からカメラマンを乗せた大きなオートバイがやってきて、後ろを撮影している。
見ると、数台のスポーツ用車椅子が猛スピードで走って来た。僕達より早くスタートした彼らは、早くも折り返してゴールを目指しているのだ。

さらにしばらくすると、二人の黒人ランナーが抜きつ抜かれつ対向車線を走ってきた。

僕と同時の5時スタートなのに、もう折り返してきたのだ!時計ではまだ6時半前。きっと彼らは2時間数分でゴールするのだろう。
同じ場所、同じ時間に全く別のスポーツを行っているように思えるほど、レベルのかけ離れた世界だ。


JTBのマスコット、ルックンが見送りに来てくれた。


ヒザにテープを巻き、指の間にワセリンを塗る。
しかし、トレーニングに勝る準備は無かった。


準備完了でスタートを待つ。


きついダイヤモンドヘッドを登り切ると、なだらかな下り坂。緑の公園や広い庭のある邸宅を横目に、しばらく快適な道が続く。
しかし下り坂では、日頃の不摂生で増えた体重がズッシリとヒザに負担を与え、あとあと僕を苦しめるなんてこの時は気づかない。

再び、お腹の雲行きが怪しくなってくる。グルグル・ゴロゴロという音に、水分の摂り過ぎという実感がある。
やっと辿り着いた20基ほどの仮設トイレには長蛇の列。ワイキキではぐれた仲間二人も並んでいる。
僕は無理に笑顔を作って挨拶し、気を紛らわせるために一生懸命関係ないことを考えた。
太陽はすっかり昇って、暑い一日が始まろうとしている。

朝8時。 約30分並び、これ以上時間がかかったら右手に広がる広大なグラウンドを駆け抜けて
森の中で自然に還そうと決意した瞬間、前の人の用が済んだ。危機一髪。

生まれ変わったかのように晴れやかな気持ちで再び走り始める。
時差や温度差に加えて食べ物も変わり、体のリズムが崩れたところに急激に水分を摂りすぎたのだろう。
落ち着いて考えてみれば分かり切った結果だが、
初めてのフルマラソンなのでどのようにコンディションを整えるべきか一つ一つ実践で学ぶしかないのだ。

その後も2〜3マイルごとに給水所があったが、僕は一口だけ飲んで後は捨てた。
路上にはそんな水と紙コップが散乱し、土砂降りの後みたいになっている。

ハイウェイに出ると、折り返したランナーが対向車線を走ってくる。
見ると、ダースベイダーの格好や和服に下駄のランナーなど、多種多彩。そろいのチームTシャツの者も多い。
しかし、下駄履きのランナーにこんなに差を付けられるなんて屈辱だ。来年はせめてトイレには寄らないで済むようにしよう。

右手には再びビーチが見えた。海岸は広く長い長い公園になっている。何て素晴らしい環境だろう。波乗りやり放題・駐車し放題だ。
老後はハワイに住みたいという人の気持ちがよく分かった。街道では付近住民が笑顔で声援を送ってくれたり、飴を配ってくれたり。
中にはサンタの帽子をかぶってアコーディオン演奏してくれるご婦人までいる。そうか!こんな良い季候だけど、もうすぐクリスマスなんだな。
飼い犬を連れて応援してくれる家族も多い。犬が大好きな僕は、とっても嬉しい。
ビーチ・パークにはテント付きステージがあり、ハワイアンバンドが演奏してくれていた。アロハに花のレイ。優しく楽しい音楽。

このあたりから、ヒザが痛み始める。
「ランナーズ」誌によれば、これは1.体重オーバー、2.筋力不足、が原因らしい。
どっちにしろショックな内容だ。ようするにグータラ食っちゃ寝をして練習しなかったツケがたたっているのだ。
スタート前にヒザを包み込むように貼ったテーピングが、辛うじて支えてくれている実感がある。
持ってきてくれた仲間に感謝。来年は練習するのはモチロンのこと、しっかりヒザを補強して走ろう。

仲間の一人、T村さん(女性)とすれ違う。速い!これから僕は湖を一周しなければならないと言うのに。
一瞬だけ名前を呼び合って笑顔で手を振り、彼女はゴールへ、僕は折り返しの湖へと向かう。
しかしその姿にもう一度自分を奮い立たせる勇気をもらった。再び走り始める。
「なんでこんな事やってんだろうなー?」と、いったい何度疑問を抱いただろうか。今にも死にそうな顔をして走っているランナーも多い。
その疑問に答えを出すにはまだまだ修行が足りないけど、こうやって仲間と健闘をたたえ合ったり、
自分の中で何かを越えた実感があった時、その片鱗が見えた気がする。ハイウェイが終わり、湖が見えてくる。やっと半分だ。

代わり映えのしない景色に飽きていたので、前に進んでいることを感じる。特に水の見える風景は気持ちを和らげる。
ハーフマラソンの時は、寒風吹きすさぶ冬の彩湖にかえって打ちのめされたけど。
大きく湖の周りを走り、ハイウェイに戻る。これから折り返し地点に向かうランナーはまだまだ多い。
前には、80歳くらいの女性と60歳くらいの女性が並んで走っている。背中にはそれぞれ、「Jane、Mother」、「Anne、Daughter」と書いてある。
母娘なのだ。みんな追い抜く時、「がんばれー!」と声をかけている。僕も嬉しい気持ちになり、声援を送った。

対向車線からは、今朝オハナ・ホテルで二日酔い自慢をしていた牛の着ぐるみ男がひとり、半死半生の風体でヨロヨロ足を運んできた。
片手には、もはやお荷物以外の何者でもない大きなビデオカメラを持っている。
ホノルルマラソンは、どんなに賑やかで楽し気でもやはりスポーツイベントなのだ。それなりの覚悟は必要である。
しかしそう考えると、ダースベイダー氏は本当にスゴイな。息だってそれこそ「コー・ホー」しか出来ないだろうに。
下駄男だって、完走の自信があればこそあの格好で臨んだのだろう。

ハイウェイを抜けると、緑の多い住宅地に入る。どの家も広い芝の庭を持っていて、デッキチェアやビーチマットで観戦・応援をしている。
犬たちは「あー、幸せ!」という顔で子供と遊んでいる。そりゃ、どの犬だってこんな土地に産まれれば幸せな顔をするというものだ。
特設の歩道橋からはカメラマンが撮影している。僕は無理矢理笑顔を作って手を振り、余裕を見せる。


 左 : 途中、特設歩道橋から撮影された写真。
     あとから小さ〜いサンプルが送られ、
     14$(最小)〜55$(ポスター)で買わないかと勧誘されるが、
     もったいないので強引にスキャンしてしまった。

 上 : ゼッケン。赤と黒のマジックは完走賞受け取りの際の印。


左手に海が見え、遠くにダイヤモンドヘッドが姿を現してきた。ゴールは近い。
ふと時計を見ると、まだ昼にもなっていない。それはそうだ。朝5時にスタートし、速いランナーは8時過ぎにはゴールしているのだから。
しかし肉体的には、限界が近づいている。ヒザの痛みは増す一方で、気温の上昇とともに息は上がり、前半は全くかかなかった汗が流れる。
なぜあんな早朝にスタートなのか、身をもって思い知った。

往路にさえキツイと感じたダイヤモンドヘッドの坂は、暴力的に体力を奪う。殆ど歩くような速さで一歩一歩足を運び、気力だけで登る。
むしろ歩いた方が楽なんじゃないだろうか?カーブを曲がるたびに「次こそ頂上か!?」と期待しては裏切られる。
もはや声援も耳に届かず、考えられるのはゴールすることだけ。ようやく頂上を越えると、今度は下り坂でヒザを痛めつけられる。
ここまで心身共にボロボロという状態が、かつてあっただろうか?

思えば、去年の今頃は自堕落な生活を楽しみ、50m走ることも考えていなかった。
鏡の前に立つのは決して楽しいことではなく、季節が変わって久々に着たシャツの首がキツくなった事に愕然としたものだ。
仲間の誘いのおかげで駆り立てられ、今こうしてホノルルマラソンを走っているなんて!
キツイ思いはしたが、感謝感謝だ。

だんだん人が増え、声援も増してくる。もはや給水所で水を飲む人は少ない。ゴールが近いのだ。
一昨日前夜祭を行った緑の公園が見えてくる。街道は人でいっぱいだ。

最後の広い広い直線。
両側に溢れる人々の声援に励まされ、「FINISH」と書かれたゲートまで誇らしい気持ちいっぱいで走る。
ついつい見栄を張ってスピードを上げてしまうが、この瞬間が長く続いて欲しいような不思議な感覚だ。

ゲートのフラッシュがたかれ、ゴール。無意識に両手を挙げると、思わず笑顔がこぼれてしまう。
時計を見るとマラソンと言うより「歩け歩け大会」のタイムのようだが、来年はきっと大きく塗り替えてやろう。


 左 : ゴールの瞬間。
     マラソン完走は、やる気があれば誰にでも出来ることが分かった。

 上 : 完走者に与えられるメダルとプカシェル(貝殻)首飾り、Tシャツ。

JTBのテントではそれぞれの思いを胸に、仲間たちが倒れ込んでいた。言葉は少なく、うまく物も考えられない。
ようやく落ち着いて、レース中考えていたいろんな事を話す。

ボトルの水やおでん、アイスクリームなどが振舞われる。しばらくして立ち上がろうとすると、体がうまく言うことを聞かないのに気づく。
やっとの思いで集合写真を撮り、ホテル目指してヨロヨロと歩く。
完走者には「Finisher」と書かれたTシャツが与えられた。今日一日、この島でこの服を着ていることがランナーの誇りだ。

時刻はまだ昼過ぎだが、ビールで乾杯して健闘を称え合う。
それぞれの部屋に戻り、しばし泥のように眠る。

気持ちは、早くも来年に向いている。

とりあえず体調管理を万全にして良く眠り、事前の水分取りすぎに注意し、体重を落とし、筋力を付けておくこと。
当たり前のことばっかりだが、体で実感するまでは本当に分からないのだ。

でも、本当に参加して良かった。
仲間に感謝の気持ちでいっぱいです。


 苦楽を共にし、いっしょに完走した仲間たちと。

 撮影は、今回マネージャーに徹してくれたT井さんの奥さん。
 感謝感謝です。

 JTBのテント前で。
 ルックンも暑い中、お迎えありがとう!


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